間接的な裏付け
先に検討した横浜生糸売込問屋甲州屋や吉村屋が、官営郵便の利用が可能となってからも1872年いっぱいはほとんどの場合、従来どおり京屋などの飛脚便を利用していることも、この点を間接的に裏付けているといってよい。
1872年(明治5)2月15日に大蔵大輔井上馨の名で正院に郵便事業の官営独占案が提出されたとき、その理由とされたのは、距離による料金差をなくして西洋並の全国同一料金(手紙一通二匁117・5グラムごとに二銭、市外地や郵便取扱所のない不便地は増料金一銭)としたいが、そうなると近距離逓送が相対的に高い料金となるから、「近キニ達スル信書ハ皆飛脚屋等ノ手二落チ、政府ノ郵便ハ唯遠方二達スル信書ノ往復二当ルノミ」(『駅逓明鑑』郵便下、109頁)という結果に陥り、官営郵便事業は収支バランスがとれなくなり発展できなくなるに違いない、ということでした。
両者の競争の激しさと、民間事業の侮りがたい実力とを正直に認めたうえでの提案であったといえるでしょう。
このあと、民間飛脚業者は陸運元会社↓内国通運会社へと編成替えされ、1880年代末までは官営郵便の請負業務をも独占しつつ、貨物運送の分野に活路を見出していくことになる(山本弘文、1972)。